織田信雄
織田信長の次男ですが、通説ではあまり優秀な武将ではなかったと言われています。
例えば、いわゆる第一次天正伊賀の乱において信雄率いる軍が大敗し、父信長に
激怒された書状が『信長公記』に書かれてあったり、『イエズス会日本年報』には
本能寺の変後、安土城を焼失させたのは信雄であるとされていたり…といったのが
主な理由として考えられます。だからと言って、決して信雄が優秀ではなかったと
は言い切れません。言い換えれば兄信忠、異母弟信孝がとても優秀で比較されての
評価という事も出来ます。信雄も本当は優秀だったのではないか…?
父信長の若い頃と同様に、「うつけのふり」をして、自身に及ぶ危険を回避して
いたのだと…。
中途半端に才覚を現すと、異母弟の信孝や従兄弟の信澄のように(秀吉の策謀により)
殺されるターゲットになってしまうからです。イエズス会の年報には「信雄は他の兄弟
よりも最も『父信長に似ていた』」とすらあります。
信雄は他の兄弟が秀吉の策謀により殺されたり、早世する中、結果的に江戸時代まで
生き残り、令和の時代の現在いらっしゃる信長の御子孫はすべて信雄からの御子孫
ですし、(まさに織田家のゴッドファーザー)
晩年の領地上野国では養蚕を奨励し、のちの富岡製糸場の原点となってます。
〈参考資料〉
明智憲三郎 著『本能寺の変 431年目の真実』
松田毅一 監訳『イエズス会日本報告集』