松浦さん いつ?どこから?何の為に? やって来たのか? 松浦家550年目の真実 ②

北九州の海賊 いわゆる松浦党が
いつ?何の為に?備中国笠岡大下村
(現在の岡山県笠岡市大冝)
にやって
きたのか…?
最初、私は「戦に敗れて落ち延びてや
ってきた」のでは…?と考えたのですが、
大まかに調べた限り「いわゆる松浦党が
何かの戦に敗れて落ち延びた」という
歴史的出来事は特にないようです…
例えば、平安時代末期の有名な
「源平の戦い」では 松浦党は平家から
源氏に寝返り、いわば「勝ち馬」ならぬ
「勝ち舟」に乗っているようです…
他に北九州の海賊 松浦党が
備中国笠岡大下村 (現在の岡山県笠岡市大冝)
にやってくるような歴史上の出来事とは…?

私が解明致しました!
これより記していきます。

時代は室町時代…14世紀末からはじまった
教科書でも習う日明貿易 (勘合貿易ともいう)
のお話からです。
時の室町幕府3代将軍 足利義満は絶大的な
権力に伴い、
当時の中国 明との貿易を開始し
莫大な利益を被ります。
しかしながら、その後 嘉吉元年 (1441年)
6代将軍足利義教が
守護大名赤松満祐に討たれ
(嘉吉の変)
そして応仁元年(1467年) に
はじまった応仁の乱を経て…
室町幕府 足利将軍家は衰退の一途を辿ります…
それに伴い、明や朝鮮との貿易を掌握する
実権は、
三管領(斯波 細川 畠山)のうちの
一家である『細川家』と
周防長門(現在の山口県) を中心に権勢を誇る
守護大名『大内家』

2大勢力に移って行く事になります…
瀬戸内海の海域は大きく2分され
『東を細川家』『西を大内家』
が掌握することとなり…
『東の細川家と西の大内家の勢力がぶつかる』
海域が まさに『備中と備後の境目の海域』
現在の 広島県福山市 と 岡山県笠岡市 の
沖の海域なのです。

そのような中、勢いを増す大内家は
西は北九州にまで勢力を伸ばし
北九州を拠点に活動していた海賊
『松浦党』を傘下に治めます…

ここでつながりました!

大内家は
『ライバルである細川家を牽制するために』
松浦党を 備中国笠岡大下村
(今の岡山県笠岡市大冝) の地に派遣した…

これが今の岡山県笠岡市大冝に住む
松浦姓の人達 私の 先祖です!

私の先祖は…
周防長門を中心に権勢を誇った守護大名
大内家の命により
ライバル細川家の瀬戸内海での勢力を
牽制するために
北九州から備中国笠岡大下村の地に
やってきたのです…
当時はそこは海辺の村でした。
ここに来たのは、まぎれもなく…
舟に乗り 荷の運搬や 時には海の武装集団
また警固衆として
の治安維持部隊…
生き生きとした『海賊集団』
『松浦党』の姿です…

では、その備中国笠岡大下村にやってきた
松浦党は、その後どうなったのか…?
を次に書いていきたいと思います…

 

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